トーキョー狂人見聞録

トーキョーとかいう愛すべき糞溜めでの人間模様の経験

スコッチと織り成した昨日のロマンティシズムについて

新宿駅東口交番前に立っている一番可愛い子がわたしだよ、と彼女は言った。

晴れの日だった。朝の洗濯物はすぐ乾き、夜はよく冷え込んだ。そんな火曜日の20:00ぴったりに待ち合わせして、僕が直観だけを頼りに彼女を見つける手筈だった。わたしを見つけてみせてよ、と彼女は言った。普通の待ち合わせはつまらないから、最高のロマンスを演出しよう。普通というものに抵抗しよう。恋愛は社会に許容された唯一の狂気なのだから。これが僕らの謀略だった。

僕は19:55に東口喫煙所でクール8ミリを一服しつつ、いつものバーに電話する。もしもし、これから2名、15分後に、はい、カウンターでお願いします、はい、何某と申します、よろしくお願いします、失礼します。

僕は彼女の服装もいまの髪型も知らない。顔は写真で見たことがあるが不安だった。19:57、彼女は間も無く東口交番前に着く旨の連絡を寄こし、僕は改めて彼女の写真をiPhoneで確認してそこへ向かった。

19:59、僕の不安を裏切る不思議な現象が起こった。

僕は交番前に到着し、着いたよ、と彼女にテキストし、iPhoneの画面から目を上げ、さて、と振り返るや否や、即座に一人の女の子に釘付けになった。人混みで溢れかえる20時の新宿駅東口交番前のそぞろ行き交う人々のうねりの真ん中で、彼女は他の何よりも真っ先に惹きつけるように僕の視界に飛び込んできて、5メートル先から僕の目を真っ直ぐに見据えて直立していた。彼女以外の他の何にも意識を奪われなかった。確信があった。仕立てのいいグレーのロングコートを身に纏った彼女の口は緊張で横に結ばれていたが、その大きな目も確信に満ちて僕を捉えていた。何秒間だったろうか、見つめあった。思考が停止した。不思議な時間だった。

僕らの最初の挨拶は決めてあった。それは、やあ、でも、こんばんは、でも、はじめまして、でもない。彼女はその数日前、僕にこういった。あなたのことを考えながらスピッツの「正夢」を聴いていて思いついたんだけど、あなたとの出会いが夢でない保証がほしいから、わたしを見つけたらほっぺたをつねってよ。

だから僕はふと我を取り戻すと、彼女に近づいて、何も言わずにほっぺたをつねった。彼女も無言で僕のほっぺたをつねって応じた。そして、夢じゃなかったね、とどちらかが言って、そうだね、とどちらかが返した。僕らの口に笑みがこぼれた。

僕らの出会いはまだ終わらない。可笑しな話だが、これは僕らにとってあくまで二人がAIなどではなく確かに物理的実体を伴って存在することの確認作業に過ぎなかった。

僕らはかつてこんな会話をしていた。完璧なロマンチックな出会いなんてそう路傍の石のように落ちているものじゃないけれど、ロマン主義者としてはそうしたものへの憧憬は捨てがたい。仮にウソでもいいから自分たちの最高の出会い方を演じてストーリーを塗り替えようよ、かわいいが作れるならロマンスも作れるよ。きみはどんな出会いにロマンスを感じるかな。わたしはね、と彼女は僕に語ってみせた。

僕はその彼女の理想を現実化することにした。だから東口交番前からアルタ裏へ移動しながら僕は彼女にこう言った。いいかい、僕らはいまの段階ではまだ出会っていなくて、まったくの他人なんだけど、たまたま同じ方向に進んでいるだけだよ。

アルタ裏の資材搬入口の赤いオーニングの下で立ち止まり、僕は彼女にここで手持ち無沙汰風に立っているよう言った。彼女は顔を顰め困惑を露わにした。僕は彼女を置いて立ち去った。1分後に戻るから、と言い残して。

僕は来た道をひとりで戻って、息を整え、彼女のもとへ引き返す。彼女は戸惑うようにそこに立っていた。

僕は彼女に話しかけた。

いやあ、降ってきましたね。

雨なんて降っていなかった。清々しいくらいの晴れの日だった。彼女は笑った。僕は続けた。

僕、傘持ってないんですよねえ、あなたも傘ないんですか?大事な書類が入ってるからこのカバン濡らせないのになあ。ねえ、よかったらそこのバーで一杯いっしょに飲みません?そこのお店はなかなかいい酒を出すんですよ。一杯やってるうちに止んでくれるかもしれませんし。

これが彼女の思い描いていたロマンスだった。勿論偶然性が前提だったろうが、偶然性なんてカケラもない、いまここのその狂気に、ふたりで顔を見合わせて笑った。彼女は口角を上げたままこくりと頷いて、僕は彼女をアルタ裏横の新宿イーグルへ引き連れた。

これが僕らの出会いだった。

新宿イーグルは昭和の古き良きオーセンティックを貫く勝手の良いバーだ。ワインレッドのカーペットとウッディな壁の階段を金色の手摺に沿って地下に降りると、肉厚ながら空気のように透明なガラス扉が目見え、近づくと壮大な何かの幕開けを予感させる重厚さでゆっくりと奥へと開いて僕らを誘う。そこへ一歩踏み入れれば、絢爛なシャンデリアは眩く輝き、美しい石壁はその光を深呼吸し、肉厚のウッドカウンターは微かに照った。徹底的に作り込まれたこの異世界が、いま非日常へやってきたことを僕らに否応なく実感させる。

ポマードで頭を艶やかに固めて昭和の時代からそのままタイムスリップしてきたバーテンダーたちに上着を預け、僕らは用意されてあった席に着いた。彼女を見やると緊張が認められた。肩を力ませて、辺りをきょろきょろと一瞥していた。僕が彼女を観察していることに気づくと、彼女は僕の目を改めてまっすぐ見据えてきた。元々くりりとしたその目は大きく開かれて輝いていた。明らかな好意の徴。見つめあいながら、僕はお気に入りのノーカラーシャツの第一ボタンを開けて、袖を捲くった。僕はクール8ミリに火を点けて吹かした。彼女もセブンスターメンソール5ミリを吹かした。彼女のライターには毛筆で力強く山崎の字がプリントされており、それが無言で酒飲みを語っていた。

彼女は極度の人見知りで、緊張すると口が大変重くなる。もともと口数も多くなく、彼女との会話における沈黙は、東から昇り西に沈む毎日の太陽の公理ほど当たり前のものだった。そして表情表現も苦手だと彼女は語る。人間観察に不得手でかつ彼女のことをあまりよく知らない人間であれば、彼女の様子を見ていま自分との時間を楽しんでいないかあるいは不機嫌であるに違いないと判断するだろう。そして彼は余裕を失い、彼女に更なる緊張とプレッシャーを与える。彼女はそうした自分の性向をコンプレックスに感じていた。そして彼女を外見的表層でのみ判断し、彼女の内面を見やれない多くの男たちを嫌悪していた。だから彼女は予め僕にひとつだけタブーを警告していた。わたしはよく無表情だとかこわい顔をしていると人に言われるけれど、仮にそうであっても絶対に言及しないで。彼女はそのとき、僕に会う楽しみと僕がそうした表層的判断を下す怖れとが混合した複雑な感情を、マリッジブルーのよう、と表現した。

僕は彼女のそうした性向を正面から受け止めた。沈黙を恐れず、彼女の美しい目を直視し、自らの顔に余裕を滲ませ、君はそのままでいいんだよ、と表情で伝えた。彼女から会話を切り出すことはない。僕からまず何かについての自分の考えや視点を表明し、彼女に意見を問うことで会話が続いた。お互いの理解が深まった。彼女は徐々に僕に向けて前傾になった。目はさらに輝いた。口に笑みがこぼれ真っ白な彼女の歯が露わになった。僕のボウモアと彼女のマッカランを前に僕らの肩と肩が触れ合い、カウンターテーブルの下では足と足が触れ合った。彼女は不意にブルーチーズをクラッカーに乗せて僕の口元に差し出してきた。思いがけない歓喜にスモーキーなアイラと香り高いブルーチーズのマリアージュが一層引き立った。

一頻り時間を楽しんだのちに僕が、そろそろ次のお店にいこうよ、ここはサントリーのウイスキーしか飲めないけれどウイスキーはサントリーだけじゃないからね、他のものを試しにいこうよ、と提案すると、彼女は無言でトイレに立った。僕は会計を済ませながら口の中で紫煙を転がして待った。僕と彼女の間に絶妙な呼吸感の符合があった。

いささか千鳥足になりながらもあの階段を戻り地上へ出ると、外の空気が冬を直線的に体現した澄みようで僕らを迎えた。僕は彼女に左手を差し出した。触ってみてよ、すごく冷たいから。彼女は恐る恐る僕の手を取った。コートのポケットにそのまま突っ込んで温めてよ、と僕は畳み掛けた。彼女は手を恋人繋ぎに組み替え、腕をかすかに絡ませて、僕の言った通りにした。人通りの多い22時の新宿を、15度後方で恥ずかしそうな顔をする彼女を引き連れて、僕らは2軒目のバー、ハーミット・イーストへ向かった。道すがら一転して薄暗く人気の無い路地を通りながら彼女の顔を見やったとき、僕は彼女の唇が何かを求めているのを悟った。だがまだ早いよ。僕はそのサインを無視した。

ヨドバシカメラ東口店の裏を少し歩いて地下に潜るとお出ましするハーミット・イーストはウイスキーの品揃えが新宿随一のバーだと思う。ウイスキー呑みに愛されるハーミットの客層は中年男性が主となる印象だ。フレッシュフルーツのカクテルも置いているが、わざわざそれを飲みにハーミットへ来る人間はあまりいないだろう。その日もカウンターはウイスキーを嘗める男たちで占められており、対照的にうら若い彼女は浮いた存在であった。幸運にもカウンター中腹に2席だけ空きがあった。僕らは席につき、程よく明るい照明が、正面に並ぶ無数のボトルたちを煌びやかに映しすのに目を奪われた。

グレンファークラス105をストレートで、彼女にはグレンモーレンジ10年のロックを。マッカランをこよなく愛する彼女に挑戦的にハイランドの王道をぶつける。マッカランの他にもスパイスの効いたウイスキーがあるのだと伝えたかった。人生はそういったスパイスで彩られるのだと。僕はグレンファークラス105の強烈なパンチで脳髄を震わせ最後へのスパートをかける算段だった。モーレンジは彼女のお気に召さなかったようだったが、燻製の漬物いぶりがっこをあてに酒が進み会話も進んだ。

彼女は自らの過去について開示する。家族のこと、幼少期からの自分。彼女のライフヒストリーを垣間見て、彼女がなぜロマンティシズムに憧憬を抱くのか理解した。家族愛の欠如。これは僕の大いに共感する問題であった。僕も愛にまつわるネガティヴな過去を自己開示する。二人の心的距離が一層近づく。彼女がテーブルの下で僕の手に指を絡ませてきた。僕らは見つめ合う。

彼女の2杯目、グレンドロナック12年ロックが空くのを見て、僕はそろそろ行こうかと切り出した。うちにおいでよ、うちでもウイスキーを用意したんだ。ブレンデッドだけれどこのドロナックもベースになっててね、きっと気にいると思うよ。

彼女は僕の目を見つめたまま何も返さない。イエスともノーとも言わない。しかしこの時の僕にはもう分かる。徹底的に心を同調させたから、いま彼女の中になにが思われていて、いま僕は何をすべきであって、そしてこれから二人がどうなるのかが、手に取るように。

僕らはハーミットを出た。

階段を2段上がって、僕は振り返った。

彼女は立ち止まった。

僕は彼女の口に優しくキスをした。彼女の唇はそれに確かに応えた。

もう言葉はいらなかった。僕は無言で彼女に手を差し出し、彼女はその手を固く握り返し、50m先に停車していた黒のセダンへ二人で乗り込み、あとは僕が運転手に自宅近くのランドマークを口にするだけだった。

僕らを乗せてタクシーのドアが閉まった。