トーキョー狂人見聞録

トーキョーとかいう愛すべき糞溜めでの人間模様の経験

自分詐欺について

僕が女の子を口説くとき、僕はトーキョーという街ではあまり実体価値のないものを四苦八苦で売り抜いている。

見てくれがいいというわけでもなく、未だに働いていないという身分、低収入、今後数年はその状態が続くであろう確定的未来、そしてその果ての就職もどうなるやら。仮にいま何らかのポテンシャルがあるにせよ、そんな物件を彼女たちが引き受けることはある種の先物取引であって、もし相手がマジメに未来を考えるなら僕は目に見えるリスクで、合理主義マインドでいけば忌避が正解だ。でもそんな合理判断もできない思慮の浅い人に僕はそもそもあまり魅力を感じないから、狙った相手にまず第一歩の「買い」の選択をさせることは僕にとってそう容易じゃないのである。

以上の要素にアルファ感なんて1ミリもないが、それでも相手に僕という人間へ一歩踏み出す決心を誰かに促すならそこに戦略は大きく二つある。結論を言えばそれらの骨子は「都合のいいものだけとことん見せて臭いものにとことん蓋をする」ということ、ある種の「自分詐欺」。まず一つ目に僕はどこか別の次元で価値を創出してリフレーミングしなきゃ/させなきゃいけない。これは相手を魅了するのに大変重要なことだ。僕は会話力と行動力に基づく「ロマンティシズム」にこれを置いていて、何人かの恋愛工学の先達もロマンティシズムがAフェーズにおいてよく機能することに気づいているようだ。だがこちらは今回の主題ではない。

もう一つは、身だしなみをカンペキに整えて、自信満々に振る舞い、そして自己開示を制限してゆくこと。見た目と話しぶりでは僕がこの年齢でフラフラしているという実体価値が読めないどころか、価値を実体以上に釣り上げる。だがウソをつくことは僕にとっての将来的なリスクになるから避ける。ウソはつかないが、だけれど僕が何者であるかを煙に巻いて相手の好奇心をくすぐり、僕についてあれこれ夢想させる。これはある意味で詐欺的手法だが、自己開示の制限によって僕が聞き手側に回ったり話を逸らすジョークで場を笑顔で和ませる機会が増えるのでAttractionのみならずConfort-Buildingとしても大変有力な戦略になっている。頭がフル回転するので精神が大変疲れるが、セックスまで到達するのにこれで難はないことがわかった。

しかしこの後者だが、その後のポストセックスピリオドでは大変問題になる。いつかの瞬間に徹底的な僕の自己開示を求められる。女の子たちは自己開示したがりだからガンガン話してきて、僕もガンガン聞くわけだが、そしてある時ふと女の子は情報の非対称性に気づく。自己開示の制限によって最初の段階で「謎めいて不思議で面白い男」だったものは、ポストセックスピリオド突入でコミュニケーションの深度が増してゆくにつれて、「身分を隠す怪しく胡散臭い男」に様変わりする。猜疑心。「あなたが自己開示しないなら私もしない」なんて言ってくる。彼女たちの感情のバケツが僕への猜疑心でいっぱいになれば、溢れかえって僕らの関係は終わる。

本当に適当な付き合いでやっていくのならそのまま自己開示を制限し続けるのでいいのだろう。むしろそう腹をくくるなら徹底的にウソも織り交ぜてとことん詐欺的に騙してやることもできるだろう。でも、僕はそんなことを1ミリも望んでいない。

今でこそ言語化できているが、これ関しては半分は無意識的に行ってきた。これがその他の人間関係で障害となることもあり、どうしたものかと悩んでいたとき、僕をカウンセリングしてくれていた臨床心理士さんとの対話を通じてやっと問題の根底が見えてきた。

僕の人間関係一般において、僕はセルフイメージを完璧主義的に高めるようだ。本来の自分が100%のところを例えば150%に持っていく。短期的に実現可能な表層(ファッションや簡単なマインドセット)は自分の描くこの150%の側に持っていく。一方で自分の何をいつ開示するかといえば、自分のセルフイメージに高値がつく瞬間にのみ、である。ウソにならない範囲で、「ここでこの事実を述べることは自分の150%ラインを満たすな」という無意識の判断が僕の自己開示の前提条件になっている。だから70%の値では自己開示ができない。時に100%でも。無意識によるブランド戦略。しかし実体以上の値でパフォーマンスすることしか僕の無意識は許さないから、日々背伸びし続ける緊張とストレスを感じるし、「たとえ70%でも何かパフォームしなければ絶対にいけない状況」で僕はうまく物事をこなせなくなる。そしてポストセックスピリオドで「セルフイメージと到底乖離した負の自分を売れ」と要求されても僕には口を閉ざす以外に選択肢がない。事実、何も話せなくなる。ましてシリアスなトーンに持ち込まれて冗談も禁じられれば、本当に一言も話せなくなる。あるいは時間稼ぎしかできない。

しかしセルフイメージを高く設定していること自体にメリットも大きい。実際そのおかげで偏差値が標準より上方に振っている要素もなにかとある。というかセルフイメージ自体は最近特に意識してわざわざ高く設定している。よく言えば向上心の一側面といった戦術的部分もある。それに自尊心がゼロなよりかは精神的に健康な時間が多い。

というわけでジレンマだ。

臨床心理士さんはそんな僕に、まずそうした性向について開示してゆくと相手も配慮し促してくれるのではないか、新たなコミュニケーションの道が開けるのではないか、と示唆してくれた。

僕は物凄く納得した。僕はコミュニケーションにおける判断においてあまりに独善的であったと猛省した。最近のコミュニケーションにおいて僕が何を話し相手に何を話させるかは全て僕が決定し流れを作っていた。だがそれは僕の美学にも反することだった。コミュニケーションは二者行為なのに僕は一人相撲をしていた。人間を人間として扱うコミュニケーションをすると標榜しておきながら構造的には別の方法で相手を物象化していたかもしれない。

だからポストセックスピリオドで(あるいは日常のその他パーソナルな間柄で)、僕はまず以上の点を自己開示することに決めた。そして僕の自己開示を四苦八苦促して欲しいと甘えてみることにした。もっと僕を掘り下げて欲しいと。そしてそれは既に試行されて、いろいろと得たものがあったのでいつか綴りたいと思う。

そして別の結論。これ以外にもカウンセリングを通じた発見は山ほどあるけれど、他者とのコミュニケーションにおいて、四半世紀生きていながらこうした次元まで僕という人間が一気に掘り下げられたのは僕を担当して下さった臨床心理士さんとのコミュニケーションが初めてであった。数十分のカウンセリング数回なのに本当に凄いなと思う。なんだあのすさまじい技術。心理カウンセリングってすごい。

とても扱いの難しい、そして一歩間違えれば非常に危険な技術だと思うけれど、これは人間が人間と向き合うときに大変重要なことなんじゃないかな。コミュニケーションの質を高めるために臨床心理学の本でも読み漁ってみようとも思う。何冊か読んで一定の考えが構築できたらここにまとめてみようかな。